【闘病記】一人でがん告知を受けました

がんの告知

組織生検をした翌日に口腔外科の先生から電話がかかってきました。
「昨日の病理検査の結果がでましたので明日きてもらえますか?」 と。予定では検査結果は翌週の火曜日でした。しかし組織生検直後から、舌の下の腫れがどんどん大きくなり、舌を圧迫させていく一方だったこともあり、翌日に検査結果を聞きに行くことにしました。

【闘病記】一人でがん告知を受けました

先生との約束の時間は15時。おそらく外来診療がすべて終わった時間を選んでくれたのでしょう。母親がどうしてもついていく!というのをバッサリ切り捨て一人で病院へ。

病理検査の結果を見せられたのですが、英語?ドイツ語?なのでさっぱりわかりません。すると先生の口からひとつの単語の意味を・・・悪性腫瘍。

悪性でもがんではない腫瘍もあるので、これは癌なのか尋ねてみると、ようやく先生の口から「癌です」と告げられました。

病名は「腺様嚢胞癌(せんようのうほうがん)」

私の病名は「腺様嚢胞癌(せんようのうほうがん)」と伝えられ「初期ですか?」との問いに「初期ではない」という返答。

その後、ここでは治療ができないので専門の病院を紹介するとのこと。選択肢は2つ、

  • 愛知県がんセンター中央病院
  • 静岡県立静岡がんセンター

のちになぜ地元の大学病院ではなく、この2病院なのかと詳しく尋ねると、舌の再建手術が必要になるのでがん専門病院を紹介したということでした。

がんの大きさが50mm弱あり、リンパの腫れから転移の疑いもあり、すぐに病院を決めて検査入院しなければいけない事態。しかしがん告知された直後にどこの病院するかなど決められるわけもなく、医師に3日後の月曜まで返事を待ってもらうよう頼みました。

がん告知後の出来事

当時について振り返ると、我ながら冷静に対処しているなぁと感じました。そして同日に日記を書いて公開しているんです。多分冷静さを保つ為に日記を綴り、気持ちを落ち着かせていたのかもしれないです。

しかし日記には綴られていないことがありました。それは診察室を出てからの出来事です。それまでは涙ひとつも出ていなかったのですが、窓口で医師の説明を受けたことの同意書にサインを書く場面がありました。その時にようやく自分ががんであることを実感し、涙がポロポロと落ちてきたのでした。幸い16時の待合室には誰もいません。私の涙を見たのは主治医と事務員さんだけです。

その後涙が止まらず、トイレの個室に駆け込みました。そして新米看護師の友人に、がんだったことをLINEで報告。後に彼女は私が治療を決めるまで、そして今日に至るまでサポートをしてくれています。何故あの時、彼女に連絡をしたのか、それはこんな話を聞いてくれる友人は彼女しかいないと思ったのです。彼女とは共通の友人を通して仲良くなり、当時は3年程度の付き合いでした。今ではかけがえのない友人です。

帰宅後、母にがん告知

帰宅後、母にストレートに伝えました。「がんだった」と。その後の記憶はあまりないのですが、夜になって母が近所の書店に行くと言い出したのです。私のがんについての本を探す為に行くというのです。しかしこの数時間で希少がんであることは理解していたので、行っても空振りで帰ってくるのがわかりましたので行くのを止めました。

しかし母は行ってしまいました。そして落胆した表情で帰宅。

この出来事を機に、私は母の前では弱いところを見せないようにしました。決して母の前では涙を見せない、それは5年経った今も守られています。

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